【ネタバレ注意】
このレビューには『The Last of Us|ラストオブアス』シーズン2第3話「道」のネタバレが含まれています。未視聴の方はご注意ください。
第3話「道」あらすじ
前回までのおさらい
ジャクソンの町は感染者の大群に襲われた。一方、巡回中だったジョエルは、感染者に襲われていたアビーを救い、彼女の案内でロッジへと向かう。しかし、そこでアビーは自身の正体を明かす。彼女は、ジョエルが5年前、ファイアフライの病院で殺した医師の娘だったのだ。そして、ジョエルを探しにやってきたエリーの目の前で、アビーはジョエルの命を奪う。
あらすじ
ジョエルの死から3ヵ月が経ち、ようやく回復したエリーは退院し、久しぶりにジョエルと暮らしていた自宅へ戻る。そこでは、ディーナからジョエルを殺した人物たちの名前と所属組織を知らされ、復讐を考える。
一方、トミーは冷静に正式な手順を踏むべきだと主張し、エリーは町議会の公聴会で彼らを説得しようと動き出す。
第3話「道」シーン解説と感想
アバンタイトルとオープニングの変化
アバンタイトル(アバン)とは?
アバンタイトルとは、通常のオープニングの前に本編の一部を先行して見せる演出手法のこと。視聴者の興味を引きつけ、物語のテーマや雰囲気を強調する役割を果たします。
主な効果:
- 物語の導入をより強く印象づける
- 重要なシーンを先に見せることで、視聴者の没入感を高める
- 通常の構成と異なる演出を用いることで、感情のインパクトを強める
第3話のアバンタイトルの演出が生む余韻と感情の波
第2話のラストでジョエルが命を落とし、その瞬間、物語は大きく動きました。そして第3話では、その喪失感をより強く印象づけるために、オープニングの前にアバンタイトルが挿入されるという演出が使われています。
普通なら、オープニングを先に流してから物語が始まりますが、今回のエピソードでは、ジョエルの死後の様子や病院でのエリーの状態が描かれ、視聴者はその悲しみをダイレクトに感じることになります。その余韻を引きずったまま、ようやくオープニングへ。ここで、私たちはエリーの心情に深く入り込んでいくのです。
オープニングのシルエットが象徴する孤独
これまでのオープニングでは、最後に映るシルエットがジョエルとエリーの二人でした。しかし、今回のオープニングでは、そのシルエットがエリーひとりだけになっています。この瞬間、ジョエルが本当にいなくなってしまったことを改めて突きつけられるわけです。
アバンタイトルの余韻と、オープニングの象徴的な変化が重なることで、視聴者の感情は大きく揺さぶられます。「ああ、本当にジョエルはいないんだ…」という喪失の感覚が、一気に胸に込み上げる。その流れでオープニングの映像と音楽が流れ始めると、涙腺がもう限界に…。
この演出の意図
このアバンタイトルとオープニングの変化は、視聴者の感情を最大限に刺激し、ジョエルの不在を痛感させるためのもの。ただ単に物語を進めるためではなく、「喪失」と「孤独」というテーマを、視聴者自身に体験させるような作りになっています。
エリーの帰宅と墓参り
退院したエリーは、3か月ぶりに自宅へ戻ります。家の脇の木には桜が咲き、季節の変化が時間の経過を感じさせます。郵便受けに書かれた「ミラー」の名前や、ジョエルが作った木彫りの彫刻など、家の随所に彼の存在を感じさせるものが残っています。
しかし、片付けられた部屋や、クローゼットにかけられたジョエルの服は、彼がもういないという現実を突きつけます。エリーはジョエルの服にそっと触れ、こみ上げる感情に耐えきれず、静かに涙を流します。
その後、ジョエルを殺された報復として、ジャクソンから精鋭16人をシアトルへ派遣する案が評議会で議論されます。しかし、結果は否決され、エリーはディーナと二人でシアトルへと旅立つことを決意します。
旅立ちの途中、エリーはジョエルの墓に立ち寄ります。墓前には、生前ジョエルが大好きだったコーヒーをそっと置き、微笑みます。そして、深い決意を胸に、墓地を後にします。
このふたつのシーンは本当に素晴らしく、何度見ても涙がこぼれます。家には、一緒に暮らしてきた人との思い出が詰まっていますよね。久しぶりに実家に帰ると、懐かしさを感じると同時に、いなくなった人のことを考えて切なくなることがあります。エリーが帰宅する瞬間は、まさにそんな感情を呼び起こすシーンでした。
お墓にコーヒー豆を供えるシーンには、シーズン1の思い出が込められています。シーズン1第4話では、トミーを探しにワイオミングへ向かう途中のキャンプで、ジョエルがコーヒーを沸かしていました。そして、車の中でそのコーヒーを飲むジョエルに対し、エリーは「焦げたウンチみたいなニオイ」と言い放ちます。ジョエルはコーヒーが大好きでした。だからこそ、エリーは彼の墓前にコーヒー豆を供えたのでしょう。このシーズン1第4話のシーンを見返していると、もうこの二人の旅を観ることはできないのかと、改めて涙が込み上げてきます。
どちらのシーンも、ベラ・ラムジーの演技が本当に素晴らしく、人前では強がるエリーが、ひとりになったときに見せる繊細な表情の変化が涙を誘います。
墓参りのシーンは、シーズン2冒頭でアビーが墓の前で復讐を誓う場面と鮮やかな対比を成しています。私たちは物語をエリー側の視点で追っているため、ジョエルを奪ったアビーを許せない気持ちが芽生え、エリーに復讐を果たしてほしいと願ってしまいます。しかし、ふと立ち止まって考えると、かつてアビーも同じように復讐心に突き動かされていたのだと気づきます。
この作品は、「視点が違えば、解釈も変わる」というテーマを巧みに描いています。ジョエルの墓前に立つエリーと、父の墓前に立つアビー。どちらも愛する人を失い、その喪失の痛みを抱えて、復讐という選択へと導かれています。しかし、私たち視聴者の感情移入の対象が異なるため、同じ復讐の行為であっても感じ方がまったく違うものになってしまうのです。
この対比によって、「復讐とは何なのか」「正義とは誰のものなのか」という問いが浮かび上がります。復讐は、憎しみの連鎖を生むだけのものなのか、それとも失われたものを取り戻すための手段なのか。その答えは、視点の違いによって変わってしまいます。だからこそ、このシーンは視聴者に強く印象を残し、見返すたびに新たな感情が込み上げてくるのではないでしょうか。
救えない人
評議会で議題が否決され、エリーの今後を案じるトミーは、心理療法士のゲイルにアドバイスを求めます。
トミーは、エリーがジョエルの影響を受け、彼と同じ道を歩もうとしているのではないかと不安を抱きます。しかし、ゲイルはエリーの資質は生まれつきであると断言し、トミーに「世の中には救えない人もいるの」と伝えます。
この「救えない人」という言葉は、一見「救いようがない人」と同じ意味に思えます。しかし、「救えない人もいる」というゲイルの言葉は、心理学的な視点から見ると、人は必ずしも他者の力で変わることができるわけではないという現実を示唆しています。これは、トラウマや強い信念を持つ人が、周囲の助けを受け入れられない場合に特に当てはまります。
この言葉の意味するもの
エリーの心理状態
エリーはジョエルの死を受け入れられず、復讐に突き進もうとしています。トミーは彼女を止めたいと考えていますが、ゲイルは「彼女の選択は変えられないかもしれない」と示唆しているのです。これは、人は自分自身で変わる決意をしない限り、他者がどれだけ助けようとしても救えないという心理学的な考え方に基づいています。
トミーへの警告
トミーはエリーを守りたいと思っていますが、ゲイルは「彼女の行動を完全にコントロールすることはできない」と伝えています。これは、他者を救おうとすることが必ずしも正しいわけではなく、時には距離を取ることが必要だという心理療法の視点を反映しています。
復讐の心理
エリーはジョエルの死によって強い怒りと悲しみを抱えていますが、復讐は必ずしも心の癒しにはなりません。ゲイルの言葉は、「復讐に囚われた人は、他者がどれだけ説得しても救えないことがある」という現実を示しているのかもしれません。
ゲイルの発言は、エリーの行動を単に「絶望的」と断じるのではなく、彼女が他者の助けによって今の心境から抜け出すのは非常に困難である、という現実をトミーに伝えるものだったと思います。これは心理学における「自律性」の考え方とも関連していて、人は他者の助言や介入だけで変わるのではなく、本人がその変化を受け入れる準備ができていなければならない、ということを示しています。
皆さんはこのシーンをどのように解釈しましたか?
さて、エリーたちの旅立ちを受けて、今後トミーがどのような決断をするのか目が離せません。物語がどのように進んでいくのか、引き続き注目したいところです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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